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見つけられた小さな秋

15年ほど前のことだが、今じゃ到底、考えられないほどにしゃにむに仕事をしていた。そんなしゃにむに仕事していた10月初旬の頃だったと思う。

車で片道2時間走らせた隣町にある外注先へ行ったときの出来事。
2、3日前に製造工程を移管し、その工程能力確認と初期品質評価を行うことが主な目的だった。
期待に反して大きな問題も発生せず、仕事を終えることが出来た。午後3時過ぎ。

大げさという表現以外は考えられないような外注先の送り出しに、どうせならリングいっぱいになるぐらいの色とりどりの紙テープでも皆で投げてくれよと、その様子をバックミラーで見ながら会社に車を走らせた。

外注先を出てすぐにトイレを済ましてくることに後悔を感じ始めていた。

信号待ちで発熱に伴う悪寒によるものでは決してない断続的に押し寄せる身震いと、歯が痒くような感覚との戦いが非常に辛くなっていた。

国道沿い左側に大きなホームセンターが目に入った。
制限速度で走る前の車に毒づきながら、気持ちだけは何度もウィンカーの音と共に左折した。

ホームセンターの駐車場は、始めたばかりの将棋板の上のような状態だった。ちょうど左側に園芸コーナーと思われる隣にトイレの表示を見つけた。

今なら両手で股間を押さえながらでも、トイレまでの距離ならカール・ルイスに余裕で勝てると思いながら、なるべく前かがみにならぬよう大股でトイレに向かった。

青色した鋭利な肩幅を持つ表示のドアを開けると、小便器が4つ、大便コーナーが2つあった。一番手前にある小便器を迷うことなく選んだ。

至福のときを満喫した瞬間のことだった。トイレの外から歌声が聞こえてきた。

ホームセンターの社歌が場内に響き渡る中、それ以上の音量で歌っているかのようだった。そして歌声がトイレに響きわたってきた。

歌声のほうに目を向けると、年齢50歳ぐらい、身長165cm程度で小太り、赤黒い顔にオセロの勝負なら白のほうが断然優勢な状態で突然の暴風に見舞われてしまったような頭がそこに乗っていた。
両膝の部分が100円玉大に白く光っていて、紺色に一本オレンジの線が入った有名メーカーのそれに似たマークの入ったジャージのズボン、毛羽立ったボディが薄い鼠色で袖の部分が白のスタジアムジャンパー風のジャンパー。足元は黒の長靴だったと思う。

目と目が合ったが、場所が場所だけに私の方が先に目を逸らし下を向いた。自慢するほどでもない見慣れているモノはそこにあった。

彼が私を通り過ぎていく空気の流れと歌声を背中で感じた。嫌な視線も感じていた。

左目の端に彼がすぐ隣の小便器に入るのが見えた。
他に3つ小便器は空いている。普通の男性なら 1つ空けたところを選択するはずだ。普通の男性なら。

彼は明らかにコチラを向いている。そして歌っている。
「〜澄ましたお耳にかすかに沁みたぁ〜♪...」

私は終盤戦に差し掛かっていたが、必要以上に腹筋を駆使して努力した。

彼は一歩下がり前屈みになって一瞬視界から消えたが、また元の姿勢に戻った。顔はコチラに向けている。
「〜呼んでる口笛ぇ〜百舌の声ぇ〜〜♪...  小さい秋ぃ〜」

色々な意味で気になってしょうがない、私は一旦顔を正面に上げ思い切って左側を向いた。

彼の顔が正面にあって、目が合った瞬間、「♪〜みぃ〜つけぇ〜 た」。

彼は「た」の口の形をして止まった。目は微笑んでいた。

その瞬間、私も思わずつられて「た」の口を作ってしまった。厳密には「た?」だったのだろうと思う。

だるまさんが転んだ状態になってしまった。

彼は履いている全てのものを、足首のところまで下ろしていた。
小便器の仕切りの脇から、まっくろくろすけが飛び出してきそうな尻がちょっと見えた。

瞬間、ジャンプしてしまうのではないかというぐらいの勢いでズボンのチャックを上げ手も洗わずトイレから出て、鉢植えが並ぶ園芸コーナーを抜け将棋板の飛車位置に止めてあった車に向かった。

車に乗り込みドアを閉め落ち着いて今出て来た方を見たが、そこに彼の姿はなかった。

ダッシュボードに置いてあったラクダが微笑むパッケージから、タバコを一本抜き取り、口に運んだときにまだ「た?」の口ままなのに気づいた。

しばらくタバコを吸いながら園芸コーナーをぼんやり見ていたが、何も起こらなかったのでタバコの火を消して飛車を動かすことにした。

会社に向けて車を1時間ほど走らせ、ちょうど信号で止まった際に「小さい秋見つけた」をいつの間にか口ずさんでいたことに気づいた。
そんな小さな秋の到来を感じた日だった。