いのちなき砂のかなしさよ

沢木耕太郎著作の「人の砂漠」を読んでいます。
約30年前、20代半ばの著者による濃厚なルポルタージュです。
かけ離れた日常世界、タブーな部分に踏み込んだ作品です。

人の砂漠 (新潮文庫)

人の砂漠 (新潮文庫)

一体のミイラと英語まじりの奇妙なノートを残して、ひとりの老女が餓死した―老女の隠された過去を追って、人の生き方を見つめた「おばあさんが死んだ」、元売春婦たちの養護施設に取材した「棄てられた女たちのユートピア」をはじめ、ルポルタージュ全8編。陽の当たらない場所で人知れず生きる人々や人生の敗残者たちを、ニュージャーナリズムの若き担い手が暖かく描き出す。

全八編のうち、「棄てられた女たちのユートピア」の章で印象に残った内容。

かにた婦人の村 施設長 深津文雄(牧師)へのインタビュー (一部抜粋)

『腹に貯めても倉に貯めるなというのが、この村を律する倫理なのですね?』
『そう、そして社会の悪の根源はそこにあると思う。誰でも腹一杯食う権利はあるんだ。食うだけならこの世はうまくいく。倉に貯めようとする奴が出てくるから、世の中がうまくいかなくなる。強い者と弱い者がはっきりしてくるからだ。強者の論理が弱者を蹴散らす。弱者はいったいどうしたらいいのだ。ぼくは、強い者がちの社会を否定する────(略)────でも、いくら教会が空理空論をもてあそんでも世の中は一向に変わらないんだ。人を批判する暇があったら、自分も泥水につかって実践すればいい。必要な事はイエス的な世界を現世に作る事だ。ぼくはイエスだったらどうするだろう・・・・・と考えながら、この村を運用してきた。死んだ赤岩栄が「イエスは私だ」といった。正しいと思う。「私はイエスだ」といえばおかしいが、「イエスは私だ」と思って実践することは必要なのだ』
教条主義というのは、ある人が経験した事実を、今度は自分が経験せずに真実だと主張することだ。イエスの言葉が真実だと叫ぶ事が重要なのでなく、イエスの言葉でいかに死んでしまったも同然の人を生きかえらすか、が問題なのだ』

( 参考:婦人保護長期収容施設 かにた婦人の村

この日本が、世界にも珍しい「売春天国」と言われた頃、これではいけない…と立ち上がったのは、クリスチャンの女性でした。その80年におよぶ運動のすえ、やっと「売春防止法」が成立した時、深津文雄牧師は一人の奉仕女を連れて厚生大臣をたずね、コロニーの必要を説いたのです。
それは、ひとりの人間が、苦しみの海に身を沈めるからには、ただ貧しいだけではあるまい、それに先立つ障害があるのではないか…と思ったからです。
果たせるかな、彼女たちの大部分は、何らかの意味で知・情・意に障害をもつ、不運な人々でした。そうした、簡単には社会復帰のできそうもない人々のために、法律には書かれていない「長期収容」と特記された婦人保護施設が、日本で初めて、館山の会郡砲台跡に生まれたのです。

昨年2010年に映画化されていることを知りました。
30年前に20代だった著者の原作を、現在(いま)、同年代の東京芸術大学映像研究科の学生が映像化したとのこと。
個性派なキャスト陣にも惹かれるので、レンタル店をハシゴしてみることにします。

人の砂漠 [DVD]

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