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サンタはいる

2009年12月19日(土) 朝日新聞(朝刊)一部引用

19世紀末、ニューヨークに住む8歳の少女が地元の新聞社に1通の手紙を送った。
「友だちがサンタクロースなんていないと言います。本当のことを教えてください。サンタはいるんでしょうか」。それを受け取った「ニューヨーク・サン」氏の編集局は本物の社説で答えた。「サンタはいるよ。愛や思いやりの心があるようにちゃんといる」
「サンタがいなかったら、子どもらしい心も、詩を楽しむ心も、人を好きになる心もなくなってしまう」。「真実は子どもにも大人にも見えないものなんだよ」

送った少女は、のちに教師に成長し校長先生になり、亡くなるまで恵まれない子どもたちの救済に尽くし、彼女の残した奨学金制度によって小さな私設学校ができ、110名の児童の心には「目に見えずとも大切なもの」が生き続けているとのこと。そこで学ぶ10歳の少女が作文の授業でつづった内容。

「デパートで会ったサンタのひげをひっぱったら、取れちゃった。でも、サンタはいないとは思わない。クリスマスになると、わくわくするのはサンタのおかげ。見えなくても、わたしの胸の中にちゃんといる」


幼い頃、家のクリスマスは決まって、すき焼きと銀色の靴下を嫌々履いている飴色した鶏モモが並んだ。
とりあえず、毎年クリスマスケーキはあったが母がひとりで年内をかけて消費していた。

保育所でサンタクロースの存在を初めて知った、ある年のクリスマス。
父は家族で食卓を囲む時間には、既にアルコールの一日の摂取量の上限に達していることがほとんどだった。
アルコール摂取量の上限付近である意思表示は、うつむいてひとりアイアン・クロー*1をしながら、思い出したように初雪の便りが届いたばかりのような白髪交じりの髪の毛を上へ数回かき上げる仕草だった。

その日はひとりアイアン・クローはしていない状態で、この時期うんざりするほど見慣れている魚の切り身を日本の名医のような箸使いで細かな骨をより分け、母に辛うじて薄茶色になるように作られたアルコールのあてにしていた。
私はその日覚えたばかりのサンタクロースのことを、夕餉の食卓の話題としていてサンタクロースの存在について母とがっぷりよつの攻防を繰り広げていた。
誰も箸を付けようとしないクリスマスケーキに、母は文字通り箸を付け巧みな箸さばきでケーキを口に運びながらサンタクロースの存在について受け流し始めた。
受け流す母の態度を感じとって鶏モモに喰らいつくが如くに食い下がった。
母が口にケーキを運んでいる箸の動きにその苛立ちが見え始めてきたときだった。

華麗な手つきで骨をより分けていた日本の名医が、その箸先で白菜の漬物の小鉢の端を、仏壇の前でりん(鈴)を鳴らすように2回音させた。
瞬間的に両目をきつくつぶり両手を頭に乗せて来るべき衝撃を覚悟したが、2、3秒経っても頭に衝撃を浴びることは無かったし、ろれつのまわらない怒鳴り声を浴びることもなかった。恐る恐るきつく閉じた目を左側に座る父のほうへ向けた。

父は薄茶色の液体の入ったグラスを左手でかざして4、5回液体を波立たせ、リトマス試験紙の色が変わるように薄茶色の液体の色が濃い色にならないかと、期待して試しているようだった。
そのグラスを通して母と目が合ったが、母は薄茶色の液体を通して斟酌しようとしているようだった。

丸めて組んだ足の間から浮標として置いたブイと同じ色をしたタバコを一本抜き取り、火を付けて「あのな」潤んだ半目で、「サンタはいない」と言い放った。
愕然とした顔を咄嗟に作り母が餌を待つ金魚のように口を開こうとした瞬間、それを遮るように煙を吐き出しながら「みんなのここにいる」、右手の魚の骨のついた箸先で自身の胸を指した。
「ひとりひとりのここにいる」と自分に言い聞かせるように言って、尻一つ分後ろに下がり吐き出した煙をなんとなく見つめていた。
私は父の毛玉だらけのトレーナーの胸についてしまった、魚の骨をなんとなく見つめていた。


当時の父の年齢にいつの間にか達していることに気づいた。
そんな豪気な父の唯一のクリスマスの思い出だ。

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*1:通常のプロレス技の場合、掌全体で相手の顔面をつかみ、指先で握力を使って締め上げダメージを与え、ギブアップを狙う技であるが、「ひとりアイアン・クロー」の場合、親指と中指を自身のこめかみに当てて、他の手は自然に顔全体を覆っている状態である。新幹線などの通路側の場合、この状態から肘掛へ「ひとりヘッドバット」への繋ぎ技として見受けられる場合もある。